着実に過ぎ去る日々
台風のせいか、急に涼しくなった。今年の夏も切り抜けたという気持ち。海で夏を満喫したなんてことはしていない。切り抜けたのである。来年の夏を考えるのも恐ろしい。ただ、今年の夏の空は雲がキレイだった気がする。去年の空を見てないだけかもしれないが。そして、街の道路に植わってる木々が青々としていて僕に訴えてくるので、建築設計士の中塚氏から頂いたデジタルカメラで写真を撮りまくった。カメラの性能がいいから写りは当然抜群なのだが、雲にしろ木々にしろ魅力的に写る撮り方をなんかつかんだ気がする。ただ被写体をセンターにバランスよく合わせて撮るのはつまらない。ファインダーを覗いてどこに焦点を合わせると一番いい色してるかとか全部収めるより一部分だけをズームするとか自分の中で調整するようになった。
自転車に乗りながら、立ち止まっては写真を撮る習慣が今年の夏からついた。
そして、この真夜中。稲吉家の祖父祖母は皆他界してしまったのですが、とうちゃんかあちゃんはどんな気持ちで生きてるのかな~なんて思ったりして。当たり前の事だが、二人にとっての親なのだが。おばあちゃんが亡くなった時、一人暮らししてる僕は用事をキャンセルして葬式に駆けつけた時はかあちゃんに感謝された。自分の親のかあちゃんが亡くなったのだから駆けつけるのは当たり前だし、少しは気持ちを察せられる。僕には結婚もしてないし、子供もいないからとおちゃんかちゃんに、孫をみせてあげれてないわけでそれが申し訳ないのだが、もし子供ができたらその子にも”僕の親”がおとうちゃんおかあちゃんであるというという当たり前の家族のつながりを気づいてくれればいいなと、先日買った糸井重里さんの「羊どろぼう」を読み終えて感じてます。
自転車に乗りながら、立ち止まっては写真を撮る習慣が今年の夏からついた。
そして、この真夜中。稲吉家の祖父祖母は皆他界してしまったのですが、とうちゃんかあちゃんはどんな気持ちで生きてるのかな~なんて思ったりして。当たり前の事だが、二人にとっての親なのだが。おばあちゃんが亡くなった時、一人暮らししてる僕は用事をキャンセルして葬式に駆けつけた時はかあちゃんに感謝された。自分の親のかあちゃんが亡くなったのだから駆けつけるのは当たり前だし、少しは気持ちを察せられる。僕には結婚もしてないし、子供もいないからとおちゃんかちゃんに、孫をみせてあげれてないわけでそれが申し訳ないのだが、もし子供ができたらその子にも”僕の親”がおとうちゃんおかあちゃんであるというという当たり前の家族のつながりを気づいてくれればいいなと、先日買った糸井重里さんの「羊どろぼう」を読み終えて感じてます。
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