一言の重み
我がアパートの通りに明るいおじいちゃん2人でやってる小さな八百屋があり、いつも店の前を通る時は挨拶を交わしていたし、たまに野菜を買いにいくと安くしてくれたりしてくれる暖かい八百屋さんが、昨日でどこかへ行ってしまいました。昨日通りがかった時店内がさっぱりしていて”あれ?”と思いつつも気にかけずいたら、今日店の前を通ると店内は工事で取り壊されていました。隣にマンションの建築現場があるので、土地を売ったのかも。昨日までの初台に来て5年一寸の間ずっと見て来た馴染みの風景が一日で消えてなくなりました。昨日通りかけた時、一言でも話してれば良かったと何気ない一言を交わせなかった昨日一日を後悔しました。
何気ない一言から思い出したのは、僕が大学を卒業して俳優として初めてお金をいただいてやった公演『HITORI』。タイトルの通り一人芝居だったんですが、元々芝居を始めたきっかけもイッセー尾形さんの一人芝居が大好きで僕もやってみたいと思って農大の演劇研究部に入りました。そして、大学時代に通い出したダンススタジオの先生が僕の人生を左右させた松本敬治さんであり、彼が”僕の一人芝居をやりたい熱”をくんでくれてやろうということになり、早速下北沢のとあるホールを借りてくれて話はトントン拍子で進みました。松本さんも僕も恐いもの知らずでしたので。そんな時にうちのかあちゃんが言った一言。「一人芝居なんかできるの?やめといた方がいいんじゃない」。芝居経験もない自分の息子がいきなり一人芝居をお金とってやるというんだから、心配するのは当たり前なこと。あそこで心が揺らいでいたら今はなかったろう。でも、あの時の僕には恐さは全くなかった。一人芝居をやれるという幸せ、実現するまでに十年はかかると思ってたのに、松本さんのバックアップで勢い付いていた。勿論、簡単に行けた訳ではない。稽古場がないから、都庁の横の橋の下で演出を任せていた劇研仲間に自分の作った話をやってみせると、これじゃダメと台本を変える様言われる。そこで、自分だけ満足してただけだと気づかされ焦り出す。僕は芝居も碌にできないのに脚本、演出をひとりでやろうとしていた。そんな現実に気づいた時には公演は近づいている。そんな時に救ってくれたのが、同じく劇研仲間で留年して丁度部活に参加していたショウカで忙しいとこ無理言って脚本を考えてもらい、そこに僕も話を味付けして劇研の部室や広間を借りて練習した。ショウカにちゃんとみてもらいたかったが、彼も部活の脚本、演出をしてる時期で合間をぬってぐらいでしかみてもらえなかったので、他の芝居仲間を呼び出して都庁の横でサラリーマンが通るとこで通し稽古をみてもらったりもした。あの時は路上でやる事の屈辱感を味わされたいい経験になった。敬治さんに仕上がりをみせる日があり、わざわざ農大に来てもらいショウカ立ち会いの元、全然出来上がってない通しをみてもらった。一通り終わって、敬治さんの顔を見ると笑顔はなく無表情だった。そして、僕が小道具をかたづけてる横でショウカに『これおもしろいの?』と素で聞いていた。落ち込んだ。でも、ショウカは『いや、おもしろいですよ』と初対面の敬治さんにも臆することなく言ってくれたのが有り難かった。稽古期間もろくにないまま公演前日、ショウカにうちに泊まって貰い、夜中の公園での稽古に付き合ってもらう。そして、当日のホールに入る前の貴重な時間も下北沢の線路沿いにある空き地でマンツーマンで芝居を見てもらう。そして、ショウカの『よし!!行ける』という一言を最後にもらい、いざホールへ。ホールでは準備してすぐ本番のひと公演だったので、プロデューサーであり音響の敬治さんの音チェックだけで開場した。お客さんも身内大半ながら、50人以上来てくれました。狭い楽屋でショウカが見守ってくれて僕も捨て身で出し切りました。気づいたら、皆さんの笑顔をいただきながら客だしをしていました。御見送りを終え、ホールに戻ると敬治さんは受付の子と精算していた。僕が近づいていくと敬治さんは『つよし、凄いよ尊敬するよ』と考えてもなかった最高の言葉をいただいた。芝居には馴染みのない敬治さんに僕の芝居の力を少しは見せられたなと、そして、ショウカと僕の力を見せれたなと。そのあと、打ち上げだったが敬治さんは参加せず、ショウカも何も言わず帰った。翌年も「HITORI2」というタイトルで敬治さんにプロデュースしてもらいました。ショウカは卒業して、今では人材派遣会社の社長をやっているくらいだが、二人で芝居ユニット(透明ライオン)を立ち上げたり、一徳会の公演なのに”ひとり八つ墓村”の時も脚本、演出を仕事終わりに携わってくれたり今後も僕の芝居人生では欠かさない存在になるとおもっている男です。がむしゃらに向かってたら一生を共にするだろう仲間と出会っていた。
周りの言葉に惑わされず自分を信じて突き進んだら、最後に今でもあの時の声のトーンまで鮮明な記憶で残ってる師匠の言葉が心の支えとなって僕に勇気をくれている。
何気ない一言から思い出したのは、僕が大学を卒業して俳優として初めてお金をいただいてやった公演『HITORI』。タイトルの通り一人芝居だったんですが、元々芝居を始めたきっかけもイッセー尾形さんの一人芝居が大好きで僕もやってみたいと思って農大の演劇研究部に入りました。そして、大学時代に通い出したダンススタジオの先生が僕の人生を左右させた松本敬治さんであり、彼が”僕の一人芝居をやりたい熱”をくんでくれてやろうということになり、早速下北沢のとあるホールを借りてくれて話はトントン拍子で進みました。松本さんも僕も恐いもの知らずでしたので。そんな時にうちのかあちゃんが言った一言。「一人芝居なんかできるの?やめといた方がいいんじゃない」。芝居経験もない自分の息子がいきなり一人芝居をお金とってやるというんだから、心配するのは当たり前なこと。あそこで心が揺らいでいたら今はなかったろう。でも、あの時の僕には恐さは全くなかった。一人芝居をやれるという幸せ、実現するまでに十年はかかると思ってたのに、松本さんのバックアップで勢い付いていた。勿論、簡単に行けた訳ではない。稽古場がないから、都庁の横の橋の下で演出を任せていた劇研仲間に自分の作った話をやってみせると、これじゃダメと台本を変える様言われる。そこで、自分だけ満足してただけだと気づかされ焦り出す。僕は芝居も碌にできないのに脚本、演出をひとりでやろうとしていた。そんな現実に気づいた時には公演は近づいている。そんな時に救ってくれたのが、同じく劇研仲間で留年して丁度部活に参加していたショウカで忙しいとこ無理言って脚本を考えてもらい、そこに僕も話を味付けして劇研の部室や広間を借りて練習した。ショウカにちゃんとみてもらいたかったが、彼も部活の脚本、演出をしてる時期で合間をぬってぐらいでしかみてもらえなかったので、他の芝居仲間を呼び出して都庁の横でサラリーマンが通るとこで通し稽古をみてもらったりもした。あの時は路上でやる事の屈辱感を味わされたいい経験になった。敬治さんに仕上がりをみせる日があり、わざわざ農大に来てもらいショウカ立ち会いの元、全然出来上がってない通しをみてもらった。一通り終わって、敬治さんの顔を見ると笑顔はなく無表情だった。そして、僕が小道具をかたづけてる横でショウカに『これおもしろいの?』と素で聞いていた。落ち込んだ。でも、ショウカは『いや、おもしろいですよ』と初対面の敬治さんにも臆することなく言ってくれたのが有り難かった。稽古期間もろくにないまま公演前日、ショウカにうちに泊まって貰い、夜中の公園での稽古に付き合ってもらう。そして、当日のホールに入る前の貴重な時間も下北沢の線路沿いにある空き地でマンツーマンで芝居を見てもらう。そして、ショウカの『よし!!行ける』という一言を最後にもらい、いざホールへ。ホールでは準備してすぐ本番のひと公演だったので、プロデューサーであり音響の敬治さんの音チェックだけで開場した。お客さんも身内大半ながら、50人以上来てくれました。狭い楽屋でショウカが見守ってくれて僕も捨て身で出し切りました。気づいたら、皆さんの笑顔をいただきながら客だしをしていました。御見送りを終え、ホールに戻ると敬治さんは受付の子と精算していた。僕が近づいていくと敬治さんは『つよし、凄いよ尊敬するよ』と考えてもなかった最高の言葉をいただいた。芝居には馴染みのない敬治さんに僕の芝居の力を少しは見せられたなと、そして、ショウカと僕の力を見せれたなと。そのあと、打ち上げだったが敬治さんは参加せず、ショウカも何も言わず帰った。翌年も「HITORI2」というタイトルで敬治さんにプロデュースしてもらいました。ショウカは卒業して、今では人材派遣会社の社長をやっているくらいだが、二人で芝居ユニット(透明ライオン)を立ち上げたり、一徳会の公演なのに”ひとり八つ墓村”の時も脚本、演出を仕事終わりに携わってくれたり今後も僕の芝居人生では欠かさない存在になるとおもっている男です。がむしゃらに向かってたら一生を共にするだろう仲間と出会っていた。
周りの言葉に惑わされず自分を信じて突き進んだら、最後に今でもあの時の声のトーンまで鮮明な記憶で残ってる師匠の言葉が心の支えとなって僕に勇気をくれている。
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